【コラム】「ナガサキ・アーカイブ 未来へつなぐワークショップ」(齋藤)

KURASOU.の齋藤です。
夫の海外赴任、第2子出産のため、12年の月日を過ごした東京を離れ故郷に戻ってきています。
わたしの故郷・長崎は、今年、原爆投下から70年目を迎えようとしています。

わたしの祖母は被爆者で、わたしは被爆三世。
とても有難いことに、わたしは戦争を知ることなく、平和な街・長崎で18歳まで過ごしました。
30歳となった現在、久しぶりに過ごす長崎は、10代の頃とはまた違った風景に見えている気がします。

現在のわたしが今は亡き祖母のため、そして故郷のためにできることはなにかを見つけたくて、
「ナガサキ・アーカイブ 未来へつなぐワークショップ」に参加してきました。


あの日の時間にタイムスリップ

ナガサキアーカイブは、被爆者の体験談、被爆直後の長崎から現在に至る風景の変遷を
デジタル地球儀上にアーカイブし、長崎原爆の実相を世界に伝えるためのコンテンツです。

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ナガサキアーカイブによって明らかにされる被爆者の位置

 

デジタル地球儀Google Earthを用いて、長崎の地形を立体的に俯瞰しながら、
被爆者の写真と体験談を、1945年8月9日に実際に被爆した場所と関連付けて閲覧できます。
また、被爆直後に撮影された写真と2010年現在の写真を重層表示し、
被害のようす、その後復興を遂げた長崎のようすを時空を越えて体感することができます。

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ナガサキアーカイブによって明らかにされる被爆者の位置

7月5日(日)に開催されたワークショップは、
被爆体験講話、事前に読んでいる被爆体験談についてグループディスカッション、アーカイブの実作業を経て、
実際に外に出てその作業の成果を体験し、
最後に「このアーカイブを何に活用できるか」という内容でアイデアソンを行いました。

会場となったのは、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
死没者を追悼し、平和を祈念する施設として12年前に建てられた、とても穏やかで静かな空間でした。

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会場の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館。 (Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

 

戦争がなかったら、よかったのに。

わたしは、小学から中学時代にかけて平和学習の一環として、
被爆者の話を聞いたり、映画を見たり、平和を願う歌を歌ったことがあります。
しかし、高校生になった頃からそのような機会がほとんどなくなり、
今回久しぶりに、直接被爆体験講話を聞かせていただく機会でした。

被爆当時16歳、爆心地から約2.8キロ地点で被爆された永野悦子さんのお話を聞きながら、
涙がこみあげてくるのをぐっとこらえました。

当時の暮らしのこと、8月9日のこと、そして大切なご家族を亡くされた時のこと…

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被爆者、永野氏による講演 (Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

一つひとつの言葉を丁寧に、大事に語っていらっしゃる永野さんの講話は、
新しくじぶんの家族を築いている現在のわたしには、
子どもの頃聞くよりもはるかに大きな何かを心の中に残しました。

「私にとっては苦しい70年でした。」

「戦争はぜったいにしてはいけません、必ず肉親との悲しい別れがあります。」

繰り返される永野さんの言葉は、戦後70年を迎えた今、
まだ見ぬ未来にも伝え続けられるべきメッセージだと思います。

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聞き入る参加者達(Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

生きた軌跡を残す、そして活かすために

実際にGoogleEarthを使って作業する時間となりました。
被爆者の証言を元に、その方が被爆された地点を探しだし、マッピングしました。

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被爆者の証言を元に (Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

わたしがいたグループでは、お二人の被爆者の被爆地点を探しだし、その方が生き抜いた軌跡の線をマップ上に引きました。
当時と現在の地名で異なる部分があったり、防空壕や軍需工場の名前が出てきたり、
「ここはどこだ?」「これは何だ?」という疑問が沢山出てきて、作業の難しさは想像をはるかに超えていました。

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証言と地図を一致させる作業 (Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

被爆証言と地図とが一体となると、リアリティが増してくることは言うまでもありませんが、
タイムスリップしているかのような気分になり、想像力がより掻き立てられます。

そして、被爆者お一人おひとりが、“生きて”“生き抜いた”証を残し、後世に伝えていく
このナガサキ・アーカイブの取組に大きな意義を感じずにはいられませんでした。

最後に、このアーカイブの活用法についてグループでアイディアを出しあいました。

  • 目が不自由な方のために、音声ガイドをつける

  • 街歩き、観光にもっと活用していくために、アーカイブが搭載されたタブレットの貸出などをする

  • 戦後復興の様子もわかるように地図上に残す

  • 社会の教材として学校で活用できるように、証言と共に戦前の暮らしの様子なども併せて載せる

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後世に伝えるためには?アイディアソンの様子 (Photo credit:首都大学東京渡邉研究室)

命をつないでくれた祖母へ

「当時のことを思い出したら涙がでます。娘が亡くなったことがやっぱりずっと頭に残って。」

1998年8月に、わたしの祖母が残していた言葉です。
被爆53年目の年に発行された『風化に抗して』の一部に残されていたのを改めて読み返しました。

娘とは、わたしの伯母(母の姉)であり、42歳の若さで癌で亡くなりました。
祖母がよく「若くして娘が亡くなったのは、母乳で育てた自分のせいだ」と語っていたのを覚えています。

8月9日当日、通信社で働いている時に被爆している祖母は、
職場は爆心地から離れていて直接外傷などがあったわけではなかったのですが、
原爆投下後、兄弟を探し回ってあちこち歩きまわったり、幸いにも見つかったのですが、
ひどい火傷をおった弟や妹の薬のために、伊勢えびの殻を料理屋から拾う毎日だったそうです。

原爆について自ら語ることはほとんどなかった祖母で、
幸いにも大病を患うことなく2年前の8月92歳で亡くなりました。
わたしにとっては、面倒見がよく優しく、でも頑固でたくましい祖母でした。

親となった今、祖母の言葉の重みをわずかでも理解できる気がします。
祖母があの時代を、8月9日を生き抜いてくれたからこそ母がいて、
わたしが生まれ、そしてわたしも息子に会うことができ、そしてまた、新たな命を産みだすことができました。


全国で初めて長崎県議会で、現在安倍政権が成立を目指す安全保障関連法案の
今国会での成立を求める意見書を可決したというニュースを耳にしました。(※7月9日時点)

様々な立場、角度からの意見があるのは当然ですが、
被爆地長崎の議会が全国に先がけてこの法案を推し進めようとする姿勢に、
わたしは戸惑いと違和感をおぼえずにはいられません。

ナガサキ・アーカイブは、未来へ残していかなければならない、“生きる”言葉を繋いでいく一つの方法です。
「みなさんたちの手で平和が続くように、守ってください」と話してくださった被爆者永野さんの言葉。
「戦争、原爆はぜったいにあってはならない、こういう悲劇は自分達一代限りでよい」と残した祖母の言葉。

“わたしにできること”の輪郭が少しずつ見えてきた、そんな気がした一日でした。

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(齋藤)