【家外学習】「確実に」生きるとは?(KURASOU.家外学習from長崎)

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KURASOU.の齋藤です。
夫の海外赴任に伴い上海に住みはじめ1か月を迎えようとしています。

3歳になったばかりの長男、4か月の次男を連れての初めての海外生活にはじめは戸惑いましたが、
少しずつ“楽しむ”余裕が出てきました。

また“子どもにやさしい人が多い”と聞いていましたが、今はそれを生活の中で実感しています。
「いくつ?」「男の子?女の子?」「足がさむそうよ!靴下は?」などと話しかけてきたり、
笑ってあやしてくれたり。地下鉄の中、信号待ち、エスカレーター、スーパーの中など色々な場面で遭遇します。

私は片言しか話せませんが、ほんの一瞬でも繋がることができるこの瞬間がけっこう好きです。
そして、赤ちゃんや子どもの存在は、いとも簡単に言葉や国境を越えるんだと肌で感じています。


さて、上海に引っ越す直前に長崎で行った、家外学習についてレポートします。

みなさんは小中学生の頃、教室を飛び出して校外学習をした経験はありませんか?
また修学旅行先で、その土地の名所を観光したり、それについて勉強した経験はありませんか?

KURASOU.家外学習は、
「親となった人が、家の外に飛び出して、じぶんの育った街や、住んでいる街について、
見たり聞いたり学んだりして、じっくり見直してみる。」という取り組みです。

私は幼なじみと一緒に、それぞれ赤ちゃんを抱っこしながら故郷・長崎の家外学習を2回行いました。
今回は、1回目に訪れた「城山小学校平和祈念館」について書きます。

戦争の中にある悲しい結末

少年平和像:児童たちは登下校時に平和への願いを込めて拝礼をする

少年平和像:児童たちは登下校時に平和への願いを込めて拝礼をする

1回目は、長崎の伝統的な祭り、長崎くんちで街がにぎわう清々しく晴れた日に行いました。
長崎原爆で被爆した旧校舎の一部が遺構として残され資料館となっていて、私たちのほかにも多くの修学旅行生が訪れていました。

城山国民学校(現:城山小学校)は爆心地から西方500メートルにあり、爆心地にもっとも近い国民学校でした。
学校にいた教職員31人のうち28人が亡くなり、
およそ1500人いた児童のうち1400人余りが家庭で亡くなったと推定されています。

また、学校を三菱重工株式会社長崎兵器製作所の一部が疎開し使用していため、
その所員たちなど約120人中100人余りの方が亡くなったそうです。(※1)

城山国民学校の生徒の中で、現在生き残っていらっしゃる唯一の被爆者、池田氏

城山国民学校の生徒の中で、現在生き残っていらっしゃる唯一の被爆者、池田氏

私たちは、資料館で案内人をつとめる池田松義さんと話をさせていただくことができました。

池田さんは、当時城山国民学校の1年生。
城山国民学校の生徒の中で、現在生き残っていらっしゃる唯一の被爆者です。
当時の暮らしのこと、8月9日のこと、被爆直後のこと、そしてそれからの人生のこと…
2時間近い時間を割いてくださり、たくさん話をしました。

池田さんは、長崎原爆で大切なご家族を亡くされています。
池田さんは、7歳で、お母さまをご自身の手で荼毘(だび)に付す(※2)という経験をされています。

みなさんはその光景を想像することはできますか?

私は、胸が張り裂けそうになったと同時に、発する言葉が見つかりませんでした。
わずか7歳の幼ない子が、このような経験をしなければならなかったという現実が、
たった70年前に起きたということ。
原爆が落とされたことによっておこった一つの真実だということ。

わたしは、これが、「戦争」だということを知りました。

「確実に」生きる

戦後、池田さんは親せきをたらい回しにされながら暮らしていたそうです。
生きるか死ぬかの中での暮らし、子どもなのに泣き言は言えない暮らし。
しかしその中でとても良い巡り合いがあり、それに支えられながら生き抜いてきた池田さんは、
“生きる”ことと、“「確実に」生きる”は違うと教えてくれました。

その言葉の裏には、私が想像するよりもはるかに深く強い意味が込められているのだろうと思います。

故郷の歴史を紐解く

池田さんは、長崎の原爆だけでなく「そもそも長崎とは…?」という歴史についても話してくださいました。

1570年の開港をはじまりとして、445年の歴史がある長崎。
昔学校で習ったような曖昧な記憶と格闘しながらも、池田さんの話はとても興味深いものでした。

長崎原爆とキリスト教の関係、旧市街・新市街のことなど、
生まれ育った街の意味や歴史を知ることで、景色が変わることを感じました。

それぞれ赤ちゃんを抱っこしながら

それぞれ赤ちゃんを抱っこしながら

人の支えが生きる勇気

最後に、“夫婦とは”、“家族とは”という話題で締めくくりました。

家族の支えや夫婦での支え合いがあったからこそ、“生きる勇気”があったこと。
五感で理解し合え、大事な部分が同じであったから、“夫婦”でいれたこと
夫婦や家族は色んな形があるのが当たり前なので、何がいい、悪いではありませんが、
私はとても共感したと同時に、
奥さまのことを話される池田さんの顔が、とても穏やかで優しかったことが印象的でした。


つらく悲しい経験を誰かに話す、ということは決して簡単ではないと思います。

しかし、「自分と向き合って納得をして、真実を伝えるんだ」と話してくださった池田さん。
子どもたちだけでなく、子どもをもつ親に、資料館に来てもらったり、
被爆者の話を聞いたりしてほしいと仰っていました。

そして家庭の中で、子どもと一緒に話をしてほしいと仰っていました。
幸いにも戦争を知らずに育った私たち世代は、その恐ろしさや悲惨さの実態は本当のところでは理解できないかもしれません。

しかし、戦争のない国を存続させていくためにも、過去と向き合い、目をそらさず、知ろうとすることが
大事であり、その姿をまずは親が示していくということも大切だと感じました。

KURASOU.家外学習From長崎2回目に続きます。

嘉代子桜

嘉代子桜:被爆当時、校舎にいて亡くなられた林嘉代子さんのお母様が寄贈された桜の木

(齋藤)

(※1)城山小学校平和祈念館パンフレットより一部抜粋)
(※2)火葬するの意