【メディア掲載】新宿区男女共同参画情報誌『ウィズ新宿』寄稿しました

KURASOU.齋藤です。12月に入り、私が今暮らしている上海も冬らしさが増してきました。
空気が良くない日も多々ありますが、2人の息子たちが元気よく過ごしてくれているのが救いです。


さて、11月末に数日間日本に一時帰国した時のこと、藤岡からある冊子を手渡されました。
新宿区が発行している『ウィズ新宿』。「女性の政治参画70年」という特集が組まれており、
数ページめくると藤岡のコメントが掲載されています。

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新宿区男女共同参画情報誌『ウィズ新宿』125号

区としてこのような冊子を制作していることに感心もしますが、
それ以上に知らないことだらけの内容が視覚的、時系列的にわかりやすく書かれていて、とても興味をそそられました。
簡単になりますが、この特集の内容紹介、藤岡そして私の考えを書かせていただきます。

女性参政権獲得の歴史と今

1946年4月10日の衆議院選挙、女性はこのとき初めて一票を投じました。1380万人の女性が投票したそうです。20歳以上の男女に選挙権があり、この時の投票率は約72%(男性:79%、女性:67%)。
この選挙に至るまでの道を切り開いたのも婦人参政権運動に力を注いできた市川房枝をはじめとする女性たちでした。
この運動の一つの大きな特徴は、生活に密着した運動であったこと。
様々な立場や事情を抱えた女性たちが進める運動は常に生活と表裏一体であり、
政治と社会へ挑み続ける彼女たちの衝動は、生活を良くしようという思いの塊でした。

また一票を投じるだけでなく、79人の女性が立候補し39人の女性議員が当選したそうです。
その背景には人口に応じて複数候補に投票できる「大選挙区・制限連記制」という制度がありましたが、
それでも衆議院議員に占める女性の割合は8.4%、これは当時の世界平均3%を大きく上回っていました

1970~80年代半ばにかけ、女性議員の数は停滞しています。
86年初の女性党首(土井たか子)が誕生したのをきっかけに、89年の参院選では、女性候補を大量に擁立し女性層を意識した選挙戦で22人の女性議員が当選しました。
さらに記憶に新しい今年7月の参院選では過去最多の28人の女性議員が当選し、参議院においては12人増の50人となり、女性議員の割合は20.7%となりました。(H28年8月現在、衆議院は9.3%)

ただし、初の女性知事が誕生した2016年、女性への注目は集まっているとはいえ、
諸外国に比べると明らかな遅れをとっています。
より生活に密着した都道府県議会の女性議員割合は8.9%、市町村議会は12%です。(新宿区は21.6%)

では、なぜ政治への女性参画は進まないのでしょう?

女性候補者が少ない、性別役割分業意識(家事・育児・介護など家庭のことは女性がするという考え)の厚い壁政治は男性の仕事という考え方政党から公認や支援を受けにくい、といった理由が考えられます。

どうしたら女性の政治参画は進むのか

政治に関心をもち、発言すること。性別役割分業意識を変えていくこと。地域の役職に就くこと。
学校や家庭で政治について話す機会をつくること。
メディアリテラシーを高め、多くの人と意見を交換し合い世論を作っていくこと、が掲げられています。
ではここで、藤岡の掲載コメントを紹介しましょう。

「親となった4年前、仕事一辺倒だった生活から子と過ごす生活へと変わりみえてきたのは、
遊び場や保育の環境、エネルギーや防災などありとあらゆる場面において、
暮らしが政治の上に成り立っていることでした。
~中略~
今よりも良い社会を残すためには、まずは半径3メートルの小さなことから問い直し、人と話し、行動することから始まるのではないでしょうか。」

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勇気という行動の源泉をもとう

この冊子を読み終えた後、私は一冊の本をふと思い出しました。
それは『希望の平和学(山川剛著、2008)』でした。長崎市出身で被爆三世である私は、著者山川先生と実際にお会いしお話を伺ったことがあります。

この本の中に「女性と平和」という章があり、ジャネット・ランキンという女性の話と、冊子の特集がリンクしました。ジャネット・ランキンは1880年、米・モンタナ州ミズーラに生まれ、
1916年にモンタナ州から下院議員に当選、26歳で米国史上初の女性国会議員になりました。
当時、ヨーロッパでは英・仏・露などの連合国と独・墺などの同盟国の間で第一次世界大戦が戦われていました。米国は当初は参戦していませんでしたが、
ウィルソン大統領は1917年に独の無制限潜水艦攻撃は人類に対する挑戦だとして「対独宣戦布告決議」を要請しました。

ランキンは、周囲の反対を押しのけ「戦争に賛成の投票はできません(I can not vote for war.)」と反対票を投じました。
激しい非難をあび、予想通り1918年ランキンは落選し、再び下院議員に当選したのは1940年のことでした。
1941年12月、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した直後、ルーズベルト大統領は、「参戦・対日宣戦布告決議」を議会に要請、上院では異例の速さで承認され、下院に回ってきました。
ランキンは「ほかの誰であれ、戦場に送ることを拒否します」と国会議員としてただ一人反対しました。(388対1)

1967年には、ヴェトナム戦争犠牲者が1万人を超えたことに対する「1万人の女性デモ」の先頭にたち、
高齢をおして反戦運動を引っ張っていたそうです。

日本でも女性議員が増えた時期には、女性の地位向上や人権が守られる法律ができています。
より生きやすく暮らしやすい社会を築いていくために欠かせない女性の視点、
そして世界の根幹である平和という状態を維持し続けていくためにも女性の勇気が重要であるということを、
女性参政権獲得に奔走した日本人女性たち、ランキンから教えてもらいました。

男性と女性しかいない世界。尊重、共存、補完しあっていく関係を家庭でも実践し、
子どもたちに示していくことが女性の政治参画を進めていく一つの方法であり、
自分の生活に密着した当たり前にあることやもの、その裏側を少し覗いたり考えたりして、
それを身近な人たちと共有していくことも一つの方法であると私は考えます。 

なお、この冊子は新宿区役所などで無料で配布されています。
ご興味のある方はぜひご覧下さい。

(齋藤)